🔍 古語拾遺の完全訳


軽皇子かるのみこ(後の天智天皇)豊明皇子とよあきらのみこ(後の天武天皇)の時代

西暦で言うと、600年代の後半。

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【原文と直訳】(秦 漢 百済の帰化)

至於輕嶋豊明朝 百濟王貢 博士 王仁わんにん 是 河内文首始祖也 秦公祖 弓月 率 百廿縣民 而歸化矣 漢直祖 阿知使主 率十七縣民 而來朝焉 秦 漢 百濟 内附之民 各以萬計 足可褒賞 皆有其祠 未預幣例也

輕嶋豊明朝に至り 百済の王 博士王仁わんにんを貢ぎ 河内文首の始祖となる 秦の公祖弓月 百廿の県の民を率い帰化す 漢の直祖・阿知使主 十七の県の民を率い来朝す 秦 漢 百済の内附民 各々万を数え 褒賞に足る 皆その祠を有すが 幣例には未だ預からず

テーブルデザインピンク2行 なんか表現が古くありません? 私の頭では、意味がよくわからないです……
このままでは、よくわかりませんよね? 以下は、【原文】の現代訳バージョンになります。
古語拾遺こごしゅうい』第3部 (秦 漢 百済の帰化) 「従五位下」官位 斎部宿禰廣成いんべのすくね ひろなり (奈良・平安時代)

軽島豊明の御時代に、百済の王は、学識豊かな王仁わんにんを日本に貢ぎました。 王仁は、河内文首の始祖として尊敬されております。 また、秦の公、祖弓月様は120もの郡の民を率いて日本に帰化されました。 さらに、漢の直祖、阿知使主様は17もの郡の民を率いて、日本に朝貢ちょうこうにいらっしゃいました。 秦、漢、百済、それぞれの国から忠誠を誓った民は、それぞれ数万人に上り、その我が国に対する忠誠心は賞賛に値するものでございました。 これらの民はそれぞれ自分たちのほこら(自分たちの宗教の神様を祀るための場所)を持っておりましたが、我が国の神社の儀式や祭り、慣習を記録する正式な幣例には含まれておりませんでした。

📼 作者の斎部廣成いんべの ひろなり 一人語り風

一般のイメージでは、古代日本の「外国との取引」は、『遣隋使』から始まったと思われてますかな? でも、ちょっと待ってくださいよ。 『遣隋使』以前の日本で、外国との交流と言われても、いまいちピンとこないかもしれませんが、これがまた面白い。 斎部の先祖が残した『古文書』には驚く記録がございましてな……   ・    ・  今よりもっと古い時代、住吉大神(新羅の王子である海檜槍あまのひぼこが現れたことが事件の始まりで。 我が国は新羅(朝鮮半島の国の一つ)を征服し、朝鮮半島の三国(新羅、百済、高句麗)から貢ぎ物を受け取ることになったのですわ。 強い我が国を見せつけてやったわけですな。 とは申しましても、敵対的に攻め入ったわけではございませぬ。 軽島豊明かるしまのとよあきら(西暦600年代後半)の時代 秦の公、弓月君ゆづきのきみが120の郡の貴族達を連れて、大量に日本に帰化したのですわ。 また、漢の直祖、阿知使主も17の郡の一族を連れて、日本に貢物を送りましたな。 秦、漢、百済から来た人々を合わせると、数万人にのぼるといいますから、当時の日本の人口が500万人と仮定しますと、この時に来た王族の末裔や貴族達の影響力は、大変なものでございました。 しかしながら、百済の国王は日本に忠実でありまして、渡来後の弓月君の民は、裏切るなんてことはただの一度もございませんでした。 そして磐余稚桜いわれわかざくら朝の時代も、三韓からの貢物が継続しており、神宝を保管する斎蔵の隣に、官物を保管するための内蔵を新たに建てましてな。 これにより、官物の管理がより整然と行われるようになったのです。 朝廷の許可を受けて来日した彼ら渡来人は、そのほとんどが、王族の末裔や貴族達ばかり。 皆優秀な人ばかりでしたから、文字や数字に長けており、漢の阿知使主と百済の博士王仁が収入と支出の計算を担当しました。 都の蔵部の管理は、ほとんど彼らに任されたわけです。

🎓 『古語拾遺』を理解する、分かりやすい解説

◆百済の王仁わんにん

百済の王仁わんにんは、5世紀末から6世紀初め(飛鳥時代)に日本に来た百済出身の学者です。 彼は日本に漢字と儒教を伝え、その後の日本の文化や教育に大きく影響を与えました。

◆秦の公、祖弓月

秦氏はたしは日本の古代氏族の一つです。 彼らは中国の秦の王族の末裔で、中国での王朝の崩壊後、朝鮮半島を経て日本にやってきました。

◆漢の直祖、阿知使主

日本に帰化した漢氏あやうじの祖とされています。 この時代、日本は朝鮮半島と頻繁に交流しており、多くの技術者や学者、職人が日本に移住しました。 これらの知識人たちは、日本の政治や文化、技術の発展に大きく貢献しました。

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